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作文 ID 原文 字数 性別 国籍 母語
作文 ID 原文 字数 性別 国籍 母語
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私は日本語がひらがな、漢字、カタカナを共存することがいいことだと思います。たしかに、この三つの字の覚えることが大変だと思われています。私もそうでした。最初、カタカナの覚えをすごく嫌だった。ふつう使い機会も少ないし、ぞうしてこの書き方があるのか、面倒じゃないのかと思ったこともあるのですが。今はわかった、私は嫌なのはカタカナではなく、外来語でした。外来語がなければ、カタカナもないはずだ。もちろん、私は中国人として、外来語が意を翻訳して、漢字を作るのがいいなと思っているが、欧米の方々はそうと思わないでしょう。音読のカタカナは彼らにとって、もっと理解やすいかもしれない。漢字は不可欠なものだと私がずっとそう考えていた。理由が三つある。一つ、私は中国人で、漢字の覚え、使いは簡単で。二つ、漢語は正式語として使っている面で見れば、やはり必要だ。日本は礼儀多い国で、もし漢語がなくしなら、大変だと思います。三つ、漢語は洗練なものだ、少ない字で複雑な意を表すことができる。これはもっとも一国の文化の特別と深さを代表することができる。そして、書道の発展にとっても、いいことだと思います。もし、漢字、カタカナもなくす、ひらがなだけ、日本の字として使うことになったら、それはよくないと思う。最初覚えることがすこし大変かもしれないが、もしこれらを全部使いこなしなら、とても便利だと思う。例えば、新聞を読み時、三つの字を共存する場合、読み取りがもっと速い、もっとやすい(前にある本で見た)と思う人が多い。そのため、私は、ひらがな、漢字、カタカナが、どちでも重要な存在だと思います。
680文字 中国 中国語
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私たちは日本語を勉強しながら、日本語の歴史もちょっと知るようになりました。最初は、日本語というのは、万葉仮名だったのです。 しかし、そのあと、仮名が出てきました。西洋の文化を習いながら、片仮名で表示する外来語がどんどん多くなっている。この歴史に見ると、漢字とか、ひながなとか、カタカナとか、全部日本文化の形成とともに出てくるものだと思います。歴史発展の必然な結果といっても過言ではないんです。だから、3種類の文字があった方がおおじゃないかと考えています。3種類の文字があると、確かに、子供にとって、勉強するのは難しくなるかもしれませんが、ひらがなだけじゃなくて、三種類だと、おもしろくなったと思う人もいるかな。漢字の勉強が難しいと思う人がいるそうです。しかし、ただ難しいといって、漢字の勉強をやめるわけにはいけません。だって、同じ意味を表すとき、ひらがなと漢字、2つの文字がある場合がよくあります。しかし、同じ意味といっても、使い場合によって、使いかえることができないこともよくあります。漢字は普段、正式な場合で使っているようです。日常会話のとき、漢字を使うと、なんだか違和感があります。しかし、発表とかの場合、漢字を使うと、もっと正式的な感じがします。それから、3種類の文字があると、和語や外来語を勉強しているながら、日本の文化もちょっとずつ知るようになれるといいじゃないかと思います。今の日本語の構成に見ると、外来語の比率がどんどん多くなっています。言葉というのは、文化のなかの1つである。外国の文化を勉強すればするほど、外来語がおおくなっているのではないでしょうか。言葉がチェンジしようと思えば、まず文化からチェンジすれば、どうかな。言葉はそんあにチェンジしやすいものではないと思います。
747文字 中国 中国語
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私は日本語の勉強も3年になる。日本語には、ひらがな、カタカナ、漢字の3種類の文字がある。これらによる表記は複雑なため、表記をひらがなだけした方がよいと主張する人がいる。もちろん、日本語の中でひらがなは一番重要なもの、文字もとても重要だ。でも、わたしはカタカナが無駄だと思う。カタカナのせいで、日本人の英語の発音は下手だ。初めて日本人の英語をきいた時、おかしいと思う。ほかの人がこれは英語と説明しなければ、永遠にわからない。こればカタカナの原因だ。日本人は子供からカタカナを勉強している。このカタカナはkの英語の単語だ。子供から発音は違い、大きくなると、困難に直す。日本の文化を継承していくために、3種類の文字が読めることは重要であると主張する人がいる。今の私もカタカナが日本のどんな文化を述べるのかとわからない。だからカタカナは無駄だ。カタカナより、ローマ字のほうがいい、カタカナは廃止られるべきだと思う。英語からの日本語は全部ローマ字で書くと思う。ローマ字は英語と同じで、文章の中で出ると、はっきり見える。だから、日本語はひらがな、漢字、ローマ字の3種類の文字が構成するはずだと思う。それと変わると、いいと思う。今のローマ字はただ発音の表記である。もし、カタカナが廃止られる。ローマ字は二つ意味である。1つは発音の表記である。二つは単語である。ローマ字の単語は英語と同じだ。例えば、ローマ字は古代ローマ帝国の首都であり、今のイタリアの首都でもある。単語はかわるけど、発音がわかる必要がない。漢字はとても重要だ。同音異義語が区別できる、漢字あれば、読みやすくなる、なければ、混乱が生じやすい。以上は私の考えだ。ただ一人の想だ。学術論文じゃなくて、一時の考えだ。
730文字 中国 中国語
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日本語と言えば、曖昧な表現はもちろん、ひらがなとカタカナと漢字の3種類の文字が共存している特徴を思い浮かべる人が多いと思う。その3種類の文字が一緒に働いたからこそ、日本語は独りして存在できると思う。もし、日本語の中に、ひらがなしかなければ、いろんなことは不利になるかもしれない。まず、日本の文化を継承していくために、3種類の文字が読めることは重要である。いままで、日本のすべてのことは3種類の文字で記されているから、もしも平仮名だけ勉強したら、いままでのある分野の研究はもちろん、自分の民族の歴史でさえわからなくなるかもしれない。それは大変だと思う。みなさん、想像してもよう。何十年以降、豊に暮らしている日本人は、世間話をしている時、日本民族に関することは何も話せない。ひいては、日本の進んでいる技術などは有利な形勢を失うこともあるかもしれない。それは日本ひいては世界に悪い影響をおよぼすと思う。その次、ひらがなだけで表記するのなら、日本語は理解しにくくなると思う。確かに、漢字は読みにくいし、漢字を使っていない国の人にとって、わかりにくいが、しかし、漢字は短くて、分量が少ないから、ある分野にとっては、簡単で重要な文字である。そして、カタカナのほう大事である。カタカナがあるからこそ、科学や娯楽などの分野に新しく生まれた言葉または表現は簡単に日本に伝えられる。それに、日本人に喜んで受け取られると思う。それで、漢語と片仮名は日本語の中に欠けない部分だと言っても言い過ぎではない。平仮名は音を表記する文字と考えられている。確かに、平仮名はこの3種類の文字のなかに、一番よみやすいものである。しかし、もしひらがなだけあるのなら、かえって、読みにくくなると思う。なぜかというと、読むときは、どこまで息をつぐのか、よくわからなくなる。それに、人の名前、地名、その他の名詞には多くの漢字が使われているため、全部ひらがなになると、同音異義語が区別できなくなり、混乱が生じやすい。それ以上迷ったことから見ると、平仮名、片仮名、漢字は日本語の欠けない部分で、どれもほかの部分ぶ取って代わられないと思う。
894文字 中国 中国語
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日本語には漢字と平仮名と片仮名三つの表記がある。この点について、人々はいろいろと議論している。これもずっと昔からの話題だった。三つの表記で一緒に使うのはあまりにも難しすぎると唱える人もいるし、場合によって、漢字、平仮名、片仮名を分けて使うことこそ、日本語のユニックでこのままのほうがいいと言っている人もいる。今や、この三つの部分はもう日本語の不可欠なものになったと私は思っている。単純的にどちを捨てたほうがいいと言うのも意味がまいと思う。とはいえ、何か一体日本語の最も重要な部分だかと考える必要がある。私は日本語の主体は漢字ではなく、片仮名でもなく、平仮名だと思う。なぜかというと、平仮名しかは日本語の代表することができないのはみんな異議がないだろう。漢字はどんなに日本語に定着するにしても、いかに中国語の代表とも言えるだろう。多少、漢字には、中国の文化や中国人の考え方が入っている。そして、片仮名は何か西洋的な意味が濃すぎる。漢字は古代に中国語を理解するために取り入り、片仮名は西洋からの外来語を表記するために日本語に入ったものだ。平仮名こそ、日本人は自分の言語を表記するために使った文字だと思う。日本の小学生は平仮名だけを使うと言われているが、平仮名だけで使ったら、すごし分かりにくいかもしれないけど、日本語が通じる。でも、漢字か片仮名だけでは、なかなか通じないだろう。日本人の日常の会話では、大体平仮名で十分だと思う。もしろん、専門的な分野になると、漢字や片仮名は大量に出ることも事実だ。しかし、これも専門用語などべつべつの一つ一つの言葉に限られている。何といっても、日本語の本体は平仮名である。漢字と平仮名はただ日本語を豊にする彼だと思う。平仮名が日本語の主体、この前題の下で日本語を使ったほうがいいと思う。
758文字 中国 中国語
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中国人にとって、やはり日本語の中で漢字を使うのことがすぎだと思う。実は、日本語と中国語の文法や表現などすいぶん違うような気がする。しかし、中国人にとってほかの外国語に比べると、日本語のほうがちょっと簡単だろう。なぜかというと、日本語が漢字を使っているからと言える。それに、ほかの国の人に比べて、日本人が中国語を習うのも簡単だろう。また、もし中国語を習った外国人は同じ漢字を使う日本語も速く勉強できると考える。それゆえ、日本語と中国語また韓国などは漢字のことを捨てないべきたと思う。漢字はその国々にだけ重要ではなく、全世界の東亜圏の交流がやすくなって、また、全世界の人に大変に便利をもたらしそうた。実は、1920ごろ中国で漢字を使うべきかどうもみな議論していた。また韓国、タイなど国はほと人ど漢字を使わなくなった。それらは自分の国の独特性を強調して、漢字をど人ど人捨てていく。私はそれが正しいと思わない。もちろん、漢字を作るのは中国人だが、漢字を使う国々のみなの努力だと思う。漢字を作る中国人もほかの国に漢字のいい表現をもらって、中国語に定着していた。実は現在の中国語はいろいろな単語をぬぎして、いまの中国語を語れないと言っても過言ではないだろう。それゆえ、日本人に感謝しているべきだと思う。それを見ると、漢字は日本にだけではなく、東亜圏、全世界も大変な文化財産になったと言えるだろう。それに、漢字とあって、文化交流と経済など、われわれ国々にすごく便利になって主て、全世界の人に東亜圏の了解を広げてあげると考える。漢字は彼らのチャンスで、漢字もわれわれ東亜圏のチャンスだと思う。それゆえ、漢字は日本にとっては必要だと考える。
711文字 中国 中国語
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日本語には、ひらがな、カタカナ、漢字の3種類の文字があります。だからこそ、日本語は日本語だ。もしこの三つの中でどれがなければ、違和感があるかもしれない。もちろん私は中国人だから、日本語は全部漢字で表記したら、私にとって分かりやすいと考えられる。しかし漢字の中で難しい字がある。筆数多い、書きにくい。ひらがなで便利だ。表記というのは一番重要なことが便利と思う。要事があったら、メーセジを書ったのは一番はやいほうがいい。全部ひらがなであれば、頭が痛いかもしれない。新聞や本など、文字が多く使われるものは、分量が多くなり、かえって読みにくくなる。例を挙げましょう。CMとドラマを見るとき、字幕が全部でひらがなで表記したら見えなくて結った。日本の文化を継承していくために、3種類の文字が読めることは重要である。昔から日本の文化の中でいろいろ国から先進の文化もらった。歴史的に見て、日本人というのは外来文化を摂取することに慣れていて、古くは中国大陸から来たものを使っていた。そして物と一緒に言葉が入ってきた。また、明治になって西洋のものが入ってくるというふうなことでつまり新しいものはいいものだという持ちがどこかにあって、それを常に追い求める。そしてまたそれを使うことによって、売ろうという商業主義に結びついているんですね。歴史というのは変わらなかった、たことだから、今、当り前のように使われている。今話に出ましたように、時と場所と言葉とは、人間の体の違いと同じようにみんな微妙に絡んでおりますから、何か必然性はあるとは思うんです。だから、今の三つで表記しましたことは当たり前だと考えられる。
691文字 中国 中国語
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日本語には、平仮名、漢字、片仮名の3種類の文字がある。その中、漢字は中国から伝来の文字で、平仮名は日本特有の文字で、両方とともに日本の長い歴史を支えている。それより、片仮名が用いられ始めたのは、ただ近代のことだ。片仮名の生まれにいろいろな原因があるけれども、私は主に二つの決定的な原因がありと思う。1つは、閉鎖的な日本は西洋に進んだ技術や制度を教わる切なる気持ちだった。もう一つは、日本人の外来のものを勉強すると同時に伝統のものを守りたい心理だと考える。だから、片仮名は外来語に専用される文字になってきた。しかし、社会の発展に伴って、片仮名はたくさんの不便をもたらした。たとえば、現在の電子製品の説明書など、普通の日本人にとっては、順調に読めるのが大変難しいそうだ。この例を通して、私達は今まで片仮名で外国語のものを日本語に伝える方法の不足が見えるでしょう。それは、外来語はただ片仮名で外国語の発音を表記されてもので、その単語の本当の意味とはぜんぜん関係ないことだ。だから、片仮名で書かれた日本語は日本人にとって、一見に読める外国語にすぎないといってよいでしょう。それに、片仮名が生まれたから今にかけて、日本のほかの世界でできた新しい物事は教え切れないに違いない。いずれも片仮名で書けば、日本語はどんどん複雑で読みにくくなるのはともかくとして、古来の日本語はきっとどんどん時代遅れになり、伝統文化も守れなくなって退化するでしょう。正しく外来のものを自国の言語導入するには、自国の言語を伝統のもとで充実させて、時代とともに発展させるのが大事だ。だから、単純に片仮名で発音を表すのではなく、外国語の意味をよく理解して、本来の平仮名や漢字でその意味をする日本人にとって理解しやすく新しい単語を作るのがよりいい方法ではないかと思う。ひたすら外来語と伝統の日本語を分けて使うのは、かえって日本語の進む道を遮って、意味がないと考える。そして、日常生活でたくさん出てくる外来語は日本人の外来語の勉強に悪い影響をおよぼすに違いない。片仮名で書かれた外来語と元来の外国語は発音が似てるけど、両方はぜんぜん同じものではない。そんな日本語を話す日本人は本場の外国語を学ぶとき、どんなにつらいでしょう。要するに、片仮名はこのままに使われて、元来の日本語に完全に溶け込むのが非常に難しいことだと思う。片仮名を廃止した方がいいと主張している。
1007文字 中国 中国語
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日本語への勉強は入学する前に思ったよりもっと難しいことを感じられる。3種類の文字があるのは悩ませることの一つだと考えられる。実は私たちの中国人にとって日本語を勉強する時に漢字の学ぶのは容易だといってよい。しかしほかの2種類の文字の勉強は簡単ではないと思う。今まで、日本語を勉強してもう3年になったが、授業の進むにつれて日本語の学習はどんどん難しくなったような感じがする。なぜなら日本語は3種類の文字を使い分けると言えるだろう。漢字を使う中国人でも日本語の勉強は難しいといったが、欧米人ならその難しさは想像できるようだ。たしかも3種類の文字がある日本語の勉強は難しい。それに、勉強しにくい日本語は日本文化が世界での人々に理解られてくれることの障害になってしまったといっても過言ではない。ところが、ふつうの思いと変わっている切り口でもう一度考えれば、3種類の文字があるのは特別な日本語ならではの特徴の一つと言えるであろか。古い中国から伝わられた文化を載っている漢字と日本の風土と土地柄を含まれている平仮名と欧米の国から学ぶことを表記する片仮名はともに日本語を構成した。そのまま外来文化を表記できるのは日本語の長所だと考えられる。この特徴を持っている日本語こそ日本が先進国になれることに欠かせない基盤といってもよいかもしれない。日本語とは最も得バツなところはあいまいなことであろか。3種類の文字を使い分けて微妙な違いを相手に伝えられるのはあいまいなことの具体的な形式と考えられる。今日本では片仮名で書くのはちょっと多いと聞いたことがある。意味は同じだが、片仮名で書き直したらなんだか新鮮でファッションな感じがするようになる。もし先生という言葉は平仮名で書くとすぐ親切な先生が思い出す。ほんとに器用な言語と思う。それも日本語の特徴であろう。
766文字 中国 中国語
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私は表記をひらがなだけにした方がよいという主張に反対する。言語に自由を与えて、言語に自分自身で発展させるべきだと思っている。存在することは合理的なのである。言語は文化のことである。日本ではもともと漢字はなかった。紀元592年、日本は飛鳥時代に入った。聖徳太子が摂政、隋に使者を派遣し始めた。中国から、社会諸制度と先進文化の吸収に努めた。漢字の引用につれて、日本の言語は発展してきた。以降、日本人の観念、意識、そして日常生活の用具の呼び方をはじめ、面々のことに漢字は欠かせなくなった。つまり、漢字は日本文化に関わって、日本文化と融合した。もし漢字はなくして、日本文化は成立できなくなってしまったと思う。三種類の文字があった方が和語や外来語などの使い分けが容易である。それだけでなく、人の名前、地名、その他の名詞には多くの漢字が使われているため、全部ひらがなになると、これまでの同音異義語が区別できなくなり、混乱が生じやすい。たとえば、どこかに「かく」というひらがなが書いてあり、私たちは「欠く」、「書く」、「角」、「核」、「掻く」かと、意味が大体分かることができて、かたがなを見ると、これはだぶん外来語かなと分かる。しかし、漢字学習がなければ、日本人の子供にとって、学校教育での負担減り、そして三種類の文字による表記は、日本語が母語ではない人が日本語を学ぶ上で負担が大きいと言う人もいる。それは理として成立できないと思う。何事を学ぶのは努力しなければならない。それに、漢字を引いて、負担がどのぐらい減られるだろうか。さまざまなコミュニケーションの手段を考えれば、表記の簡単な方が、効率的に受信、発信ができると言う人もいる。実は、日本語を勉強している私にとって、日本語でメールを作るのはそんな難しいではない。ひらがなもかたがなも漢字もローマ字で入力している。その反面、ひらがなに換えて、かえって混乱を起こすかもしれないと思う。実は、その主張に賛成する理由も反対する理由も言語を変えられない。言語は文化のことである。言語は時代につれて、ついに自然に変わるものである。だから、強制して、言語を変えることはだめだ。言語に自由を与えて、言語に自分自身で発展させるべきだと思っている。
935文字 中国 中国語
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最近、日本語に漢字の使う頻度が減る一方だが、外来語が洪水のように入り込んで仮名は人気があって頻繁に使われることになった。言うまでもなく、日本語はひらがな、カタカナ、漢字の三種類の文字によって表記している。これらによる表記は複雑なため、表記をひらがなだけにした方がよいと主張する人もいる。このような主張に対して、私は反対意見を持っている。たとえひらがなのみ表記すれば、文章の読みに迷惑をかけて、どこに停止すべきだかわかりにくくてはないか。それから、文章は不正確な停止によって意味が違う可能性がある。漢字があれば、そうな現象がなく、どこに停止すべくふぁかずくわかる。みんなは文章を読むときそんな経験があるでしょう。漢字の読み方は暗記しなければならなく、日本語が母語でなく日本語を学ぶ人に負担をかけると言う話もあるが。外国人の日本語勉強が便利かどうかことをえる必要がないと思う。そう考えれば、日本人全員は外国語を学んたらどうだった。以降は永遠に負担がない。実は、漢字は漢字なりの長処がある。漢字がひらがなでの表記により短く、意味が理解しやすい。日本語にカタカナは外来語と強調さられる部分を表記して、マークの役を果たす。どちらが外来語と強調される部分を注意してくれる。それは文章の意味の理解に役がたてている。なれば、とっても悪くてはないか。十年も使用された日本語の表記方法は変化しない方がよいと主張している。
600文字 中国 中国語
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皆さんご存じのように、日本語には、ひらがな、カタカナ、漢字の3種の文字があります。最近、これらによる表記は複雑なため、表記をひらがなだけにした方がよいと主張する人もいます。私は、そう思いません。3種の文字があればこそ、日本語が日本語の性質に現れることができると思います。確かに、3種の文字の共存している日本語を、日本語が母語ではない人が学ぶ上で負担が大きい。しかし、表記をひらがなだけにすれば、ほんとうに日本人の気持ちが理解できるのか。3種のも文字による表記は、日本語が生まれた頃から持っている特有のものではなく、長時期を経て、繰り直してきた結果なのです。昔のある時期、確かにひらがなだけによる表記の日本語が存在していました。漢字もカタカナもありませんでした。でも、それはほんとうにいいのか、よければ、今の3種類の文字による表記の日本語にならないだろう。今の日本語は、日本の文化を載っていて、自分の特色になりました。カタカナでも漢字でも、単に意味を表すだけではなく、いろいろな感情性を持っているのです。例えば、「先生」、「きょうし」、「ティッチャ」意味がだいたい同じですが、しかしニュアンスもあります。「先生」は相手に敬意を含んで、「きょうし」は普通授業を授ける人の呼び方で、「ティッチャ」は外国からの教師の呼ぶとくに使われる単語です。いくつの平仮名は一つの単語を表すか、分けにくいと思います。もう一つの理由は、多くの漢字は、見ればすぐ意味がだいたいわかります。つまり、漢字の文字による表記は、文章が読みやすくなります。カタカナは、機がいろいろあります。一つは、文章や単語などのもともとの呼び方が表せます。もう一つは、地名や外来語を表記する場合が多いそうです。ですから、私は3種類の文字による表記の日本語ほうがいいと思います。
763文字 中国 中国語
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日本語中平仮名、片仮名と漢字があります。しかし、今、平仮名だけの使い方があります。わたしはそう思いません。平仮名だけの使い方は便利ですけど、しかし、この使い方が読むときにとっては少し、不便ですと思います。「ももももももも」は難しい理解できます、そして、漢字と片仮名の長時間を使われますが、いろいろ人が漢字とカタカナを習慣しています。外来語の使うとき、片仮名を使います。それは外来語の表現です。平仮名を使えば、その表現は表現できません。それは大変だと思います。漢字は唐時代からの書き方、平仮名だけを使えば、その文化は表現できません。それも大変だと思います。平仮名と片仮名と漢字も日本の文化だと思います。だから、平仮名だけを使うことは大変です。
320文字 中国 中国語
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日本語には、ひらがな、カタカナ、漢字の3種類の文字があります。これらによる表記は複雑なため、表記をひらがなだけにした方がよいと主張する人もいます。私はこのような主張に反対します。確かに、英語のようにひらがなだけあれば、表記の簡単な方が、効率的に受信、発信ができる。でも、日本語の中では、漢字とカタカナがたくさんある、全部ひらがなであれば、新聞や本など、文字が多く使われるものは、分量が多くなり、かえって読みにくくなる。それに、人の名前、地名、その他の名詞には多くの漢字が使われているため、全部ひらがなになると、これまでの同音異義語が区別できなくなり、混乱が生じやすい。3種類の文字による表記は、日本語が母語ではないだけでなく、日本人の子供も日本語を学ぶ上で負担が大きいと考える人もいます。しかし、3種類の文字は日本の特色だ。日本文化を継承していくために、3種類の文字が読めることは重要である。漢字は日本語に対して、重要な一部分です。日本語の最初は漢字から発展しています。でも、カタカナは必要がないと思います。カタカナは外来語を表します、日本人は英語を学びにくいの原因は、カタカナがあるつもりだ、ほとんど同じ英語単語は二つの読み方があれば、誰でも困ります。つまり、私の主張は、日本語はひらがなと漢字だけあるほうがいい。外来語はひらがなを表してもいい。
574文字 中国 中国語
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日本語には、ひらがな、カタカナ、漢字の3種類の文字があります。最近、これらによる表記は複雑なため、表記をひらがなだけにした方がよいと主張するひとがいます。その人からすれば、3種類の文字による表記は日本語が母語ではない人が日本語を学ぶ上で負担が大きいと思っているかもしれませんが、私はこの主張に反対です。というよりも、日本語は3種類の文字を使って表記するのはすばらしいことだと考えています。と言いますのは、日本語は古来中国から漢字を大量に輸入し、和語と漢語を使い分けて日本語独自の表現を発展させてきたわけでして、今は、外来語がこれに加わって、バリエーションを広げています。日本の文化を継承していくために、3種類の文字が読めることは重要であると考えるからです。もし全部ひらがなであれば、新聞や本など、文字が多く使われるものは、分量が多くなり、かえって読みにくくなるのではないでしょうか。そして、人の名前、地名、その他の名詞には多くの漢字が使われているため、全部ひらがなになると、これまでの同音異義語が区別できなくなり、混乱が生じやすい恐れもあります。ご承知のとおり、日本には、古来、女性と平民はひらがなしか使いません。即ち、漢字は身分の象徴の1つなのです。いまは、日本語は外国のことばを柔軟に受け入れて、国際性になっていないでしょうか。以上から、私はやはり、ひらがなしか使わないことに反対です。
595文字 中国 中国語
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日本語には、ひらがな、カタカナ、漢字の3種類の文字があります。日本語は世界に唯一のいくつかの三種類の文字からなっている言葉だといえるでしょう。それで、これらによる表記は複雑で、表記をひらがなだけにした方がいいと主張する人、あるいはカタカなと主張する人がかなりいます。しかし、ほんとうですか?私はそうとは思いません。日本語の学ぶ者として、感じたのは漢字、カタカナがあるだけに、日本語が豊かになります。そして、3種類の文字があった方が和語や外来語などの使い分けが容易です。ひらがなで表すのは和語、漢字で表すのは漢語、カタカナで表すのは外来語と簡単に判断えきると思います。次に、日本の文化を継承していくために、3種類の文字が読めることは重要です。日本の文化はひらがなで、漢語、カタカナで表す文化が多いです。例えば、茶道、柔道などを理解するこそ、意味を習得できます。さらに、全部ひらがなであれば、新聞や本など、文字が多く使われるものは、分量が多くなり、かえって読みにくくなります。そして、発音がおなじ意味が異なる言葉の理解、どこでとまるかということは問題になります。また、人の名前、地名、その他の名詞には多くの漢字が使われているため、全部ひらがなになると、これまでの同音異義語が区別できなくなり、混乱が生じやすい。だから、やっぱりひらがな、カタカナ、漢字の3種類の文字からなる日本語のほうが意味がおおくて、理解しやすいと思います。
611文字 中国 中国語
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スロベニアという小さな国に生まれ、7歳の時にアメリカ、それとドイツとの間に住居を移り、ようやく日本に参りました。あちこち家を変わるうちに、自分が今いるところがうちだと分かりました。それは「住めば都」ということでしょうか、それとも「地獄も住処」ということでしょうか分かりませんが。趣味は色々ありますが、特に好きなのは友達と映画を見たり料理を作ったりすることです。東京に来ええてからは、日本が盛んだと言われてういるハイテクに興味が段々わいて来ています。暇なときはそのハイテクがなす超高層ビルやコンピューターの部品等を見に行きたいと思います。東京工業大学での研究生の生活が始まり、今まで習った日本語を活かして新しい友達を作っていっぱい日本語を話したいのです。
326文字 スロベニア スロベニア語
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2008年4月22日に23歳の母と11ヶ月の幼児を殺した被告に対して死刑の判決が出された。少年に対して死刑判決が一般的に適用されにくい状況の中、犯行当時18歳の少年に死刑が判決すべきかどうかということが注目されてきた。もし死刑が出されたら、山永基準の4人の死亡者を下回った二人の死亡者で死刑が少年にも判決できるという新しい先例が生まれる。日本の法律では成人は20歳以上の者と定められている。日本と違って18歳で成人になるという法律を持っている国の視点から見ると、今回の事件は分かりにくいかもしれないが、日本においても20年未満で18年以上の者に対する 死刑が下せる少年法という法律が存在する。未成年に対してはもちろん、普通の刑事事件より被告人の保護更生のために考えなければならないと思う。だが、18歳という年齢が日本において曖昧な年齢ということが今回の事件を混雑させている。日本の文化、法律では、成人は20歳以上の者とされている。たとえば、文化においては成人式があり、法律においては未成年者飲酒、喫煙禁止法がある。それに対し、国民投票法があり、中に18歳以上の者にも選挙に投票の権利を与えるところが議論されている。今回の事件は少年法の規定に従ったら、処分が無期懲役になるということは考えられる。だが、この場合だと10-15年後に犯人が拘置所から出るということが事実である。終身刑が適用できない限り、このような残虐な犯罪に対して、無期懲役が物足りないと思う人は少なくないであろう。要するに、死刑と無期懲役の差が広すぎるという。視線を日本から世界に移すと死刑を廃止、無期中止した国の数が大半を占めているということがわかる。日本では、この事件をきっかけに死刑存廃問題がよく議論されてきたが、上記した問題を解決しないまま、死刑を廃止することは難しいと思っている。日本の裁判制度はドイツの大陸法に由来し、一般市民が審理に参加するコモンローに基づいているアメリカと違って判決は法律で定めて法律に基づいて行われている。とはいえ、現在の日本ではアメリカと同じ、先例に基づいて判決を下すのもあり、大陸法とコモンローが融合されている。今回の事件は、永山則夫連続射殺事件からなる永山基準という先例に従うかその基準を軽くするかによって、日本の裁判に大きい影響を及ばすであろう。裁判員制度で日本はこれから市民に加わってもらって市民の習慣や国の伝統に基づいて新しい先例、法律を作るであろう。自分はそれが誤った道とは思わないが、問題は裁判員にどのように裁判その物を分かりやすく説明し、一般市民である裁判員が本当に裁判制度の改善に貢献するように、裁判員制度を進めていくということである。
1127文字 スロベニア スロベニア語
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私はシュコツィアン洞窟群について紹介したいと思う。シュコツィアン洞窟群は、1986年にユネスコの世界遺産に登録された鐘乳洞である。
地底湖群という優れた自然からなる滝と鐘乳石の組合わせによる景色が魅力的だと言われている。洞窟内にはレーカ川がどくどく流れ、その流れはアドリア海まで続いている。スロベニア南部にある洞窟群は約5キロ長く、深さも200メートルもある。基本的に洞窟が生じやすいカルスト地方は世界のカルスト現象研究の中心地である。スロベニアにおいて、シュコツィアン洞窟群の他にも洞窟が8000以上あるが、その中でもシュコツィアン洞窟はすばらしいので、大切なものである。例えば、シュコツィアン洞窟群はスロベニアの唯一の世界遺産であり、世界があまりよく認識していないスロベニアの象徴として国を世界に広く知らせる役割を果たしていると思われる。
それは幼い国のアイデンティティを作っている要因の一つであるかもしれない。私の国の人々にとって、シュコツィアン洞窟群は国の象徴的なものとしてとられていないように思える。国宝ではあるが、他の有名な洞窟もあるし、国旗に描かれているトリグラウ山のような他の自然がもっと代表的とも言える。
510文字 スロベニア スロベニア語
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なぜ死刑か
死刑はなぜ行われているかという質問に対して概ねに二つの理由を挙げられる。一つ目は、被告人が自分の生命で犯した犯罪を償うことによって被害者の親戚の気持ちと世間の正義感を満足させることである。二つ目は、まだ犯罪を犯していない人々に対して、他人の命を奪ったら自分も死ぬという脅しを国民が意識することによって殺人犯を減らすということである。私はどちらかというと一つ目が大事だと思う。なぜなら、死刑が終身刑より殺人犯を減らす効果が証明されていないことと自分が死んでも他人を殺すという覚悟をできている犯人がいることからである。死刑をするか否かの問題にあたっては被害者と加害者の家族の気持ちと世間の意見を全部考慮しざるを得ないと思っている。バランスを取れることはいかに難しいことであるが、その三つの要素の中から一つを強調しすぎて、または、一つを無視すること危険であってだんだん裁判の制度に偏見が入ってしまう可能性がある。日本の場合は、世論と被害者の家族の意見が一致して、山口母子殺人事件を初め、死刑がもっと判決しやすくなったと言える。そのため、死刑がさらに大きい範囲に適用でき、冤罪を引き起こす確立が上がり、結果的に無実の罪で人が殺される可能性がないとは言えない。完璧な裁判が存在しないと信じているので、やはり死刑を避けたほうがいいと思う。
568文字 スロベニア スロベニア語